2010/07/15(木)種牛を殺さず、移動制限解除するための、法についての妄想

家伝法では、家畜の移動の禁止は規定しているが、所有権放棄は禁止していない。移動制限の直前に、種牛農家が所有権放棄し、同時に管理も放棄することを考える。

人が管理する動物については農水省の管轄だが、人が管理しない動物は環境省の管轄である。明らかに家伝法は及ばない。


一応、法に言う家畜とは何であるか確認しておく。家畜の定義は、家畜商法の規定が参考になろう。
家畜商法
第二条  この法律において「家畜」とは、牛、馬、豚、めん羊及び山羊をいい、「家畜商」とは、次条第一項の免許を受けて、家畜の売買若しくは交換又はそのあつ旋(以下「家畜の取引」と総称する。)の事業を営む者をいう。
動物種だけで家畜を決めている様子で、個体の人との関係によらずに決まるようである。これは他の法律においても同様のようだ。

動物については、「家畜」以外に「人の所有する動物」「人の飼育する動物」「人の管理する動物」「人の保護する動物」「愛護動物」「野生生物」などの概念があり、それぞれ(の補集合)は法律上互いに一致しない概念のようだ。

なお民法では家畜外(家畜以外)という言葉が用いられていて、この補集合は家畜であろう。
民法
第百九十五条  家畜以外の動物で他人が飼育していたものを占有する者は、その占有の開始の時に善意であり、かつ、その動物が飼主の占有を離れた時から一箇月以内に飼主から回復の請求を受けなかったときは、その動物について行使する権利を取得する。
判例に次のようなものがある。
大判昭7・2・16民集11-138
・本条にいわゆる家畜外の動物とは、人の支配に服さないで生活するのを通常の状態とする動物を指称
補集合を考えて家畜を定義するなら、
「人の支配に服して生活するのを通常の状態とする動物を家畜とする」
になる。

これらの法律から見て、所有していた家畜について所有権を放棄しても、家畜の定義からはずれた存在になることはないし、野生とみなされることもない。

愛護動物を「遺棄」したことにならないよう注意が必要である。
動物の愛護及び管理に関する法律
第四十四条  愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、一年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。
3  愛護動物を遺棄した者は、五十万円以下の罰金に処する。
4  前三項において「愛護動物」とは、次の各号に掲げる動物をいう。
一  牛、馬、豚、めん羊、やぎ、犬、ねこ、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる
動物愛護法における遺棄の定義は不明だが、刑法第二編第三十章「遺棄の罪」が参考になろう。
老年、幼年、身体障害者又は疾病のために扶助を必要とする者を遺棄した者は、一年以下の懲役に処する(217条)。
老年者、幼年者、身体障害者又は病者を保護する責任のある者がこれらの者を遺棄し、又はその生存に必要な保護をしなかったときは、三年以上五年以下の懲役に処する(218条)
これを見ると、「保護する責任のある者が、その生存に必要な保護をしなくなること」を遺棄だと考えてよいのだろう。従って、所有権放棄を、手続きに則って正当に行えば、「保護する責任がある状態から脱する」とみなせるであろうから、遺棄にはあたるまい。

なお、「逸走した家畜は、準遺失物」らしい。
遺失物法
第二条 この法律において「物件」とは、遺失物及び埋蔵物並びに準遺失物(誤って占有した他人の物、他人の置き去った物及び逸走した家畜をいう。次条において同じ。)をいう。
逆に言えば、所有権放棄することは、逸走せしめることとは別だということだ。所有権放棄した後も、そこにいる牛にそのまま関与しなければ(無作為で居続ければ)「保護」にも「管理」にも「飼育」にも当たるまい。

所有権を放棄した後の種牛は「保護」や「管理」や「飼育」の状態やその主をどう判断するかはともかく、「無主物」だろう。

無主物となった種牛(動産)の扱いは民法の定めに沿って、県が所有することができる。
民法
第二百三十九条  所有者のない動産は、所有の意思をもって占有することによって、その所有権を取得する。
さて、すると、移動制限解除のための確認の直前に、種牛を所有する農家は所有権を放棄することができる。放棄の手続きと時刻の証明を含めて公的に証明するためには、公証人に現場に来て公証してもらえば良いだろう。公証役場は県の管轄下ではないので、県の命令で所有権放棄が恣意的に確認されたことにはならない。

家伝法に言う、家畜の所有者や管理者がいない無主物たる種牛は、移動制限解除のための確認要件事項には含み得ないから、日付の変更時に家畜の移動制限解除できる。家畜の移動制限解除後に、県が所有の意思をもって占有すれば、県のものになる。

牛の個体識別のための情報の管理及び伝達に関する特別措置法の「変更の届出」手続きは必要であろう。
第12条 前条に規定する場合のほか、牛個体識別台帳に記録されている事項に変更があったときは、当該牛の管理者は、遅滞なく、農林水産省令で定めるところにより、その旨を農林水産大臣に届け出なければならない。
所有権の放棄の際や、新たな所有の届出については規定がないが、「譲渡し等及び譲受け等の届出」の「等」に含まれると解されるだろう。
第11条 牛の管理者又は輸入者は、牛の譲渡し等をしたときは、遅滞なく、農林水産省令で定めるところにより、当該牛の個体識別番号、譲渡し等の相手方の氏名又は名称及び当該譲渡し等の年月日その他農林水産省令で定める事項を農林水産大臣に届け出なければならない。
2 前項の規定により牛の譲受け等をした者(第13条第2項のと畜者及び同条第3項の輸出者を除く。)は、遅滞なく、農林水産省令で定めるところにより、その氏名又は名称及び住所、当該牛の個体識別番号、譲受け等の相手方の氏名又は名称及び当該譲受け等の年月日、飼養施設の所在地その他農林水産省令で定める事項を農林水産大臣に届け出なければならない。


「悪法も法なり」と言うようなヤツはだいたい頭が悪い。思考停止するための言い訳としてそれをいう。頭の悪いやつ向けを想定して、悪法の悪法たるところを考察した。くどいが、「考察しただけで、これの実践を勧めるわけでない」。これはブログの説明にも書いたとおり。

2010/07/13(火)伝統

伝統を本当に大切にしてる人は、アカの他人に伝統を強制したりしない。伝統を誰かれ構わず他人に強制しようという人に、伝統の何たるかを知ってる人はいない。

2010/07/12(月)目標設定

リーダーが目的や目標を示さなければ、何事も成されない。目標設定こそ組織の死活を決めることであるからリーダーにとっては目標設定は非常に重要な事柄だ。

何を目標にするのか考えるにあたっては、注意すべきことがらがいくつかあろう。例えば人と競り合う、あるいは戦う事柄については、相手と同じ土俵に乗らないようにする事を心がけたほうがよい。相手と同じゴールを目指す場合、それが達成できないリスクが高いのだ。

単純に「勝負に勝つ」ことを目標にしたい場合でも、哲学をどうするかは問題だ。ここで言う哲学とは、正々堂々とか、共有されているルールをどこの線まで(余裕を持って)守るかとか、評価指標を何にとるか、ということだ。独自ルールと言い換えてもよい。この哲学設定を相手と変えることによって、相手と同じ土俵に立たずに、しかし競うことができる。そして、万一共有ルール上で負けたとしても、勝負哲学上では勝つことも可能となる。互いに独自の哲学で、同じ土俵に乗らずに勝負すれば、両者が勝者となることも可能なわけだ。

こうしたそれぞれの哲学を考慮に入れて「戦い」を見ると、競っている者同士は確かに共有ルール上で互いに打ち負かし合いをしているけれども、同時にそれぞれが自分の哲学上の目標達成を賭けて自分と戦っている様も見てとれる。

こうした独自哲学は、より確率の高い「勝利」をもたらしてくれるが、同時に「勝利の形の制限」ももたらす。哲学による独自目標を設定したとたん、勝利も敗北もその最終形は一定の想定された範囲内に収まってしまい、真に自由な哲学発達は得られない。いや、難しく言うのをやめれば、要するに想定外の結果(果実)がもたらされるうる自由闊達な活動は無くなるということだ。

芸術や研究は、目的・目標が仮ででも設定されてないとモチベーション不足で大抵行き詰ってしまうが、目的や目標からふみはずしてしまうことを制限していては何も生まれない。目標からはずれて邁進する何かが舞い降りたときこそ、新しいものが生まれるのだ。

2010/07/11(日)選挙予想

投票時間が終わり、投票箱が閉じられた瞬間、まだ一票も開票作業されていないうちから、マスメディア各社から当確が発表され、候補者は勝利宣言する。この「当確」判断は主として出口調査の結果を基になされているようだ。

母数が大きい事象の統計分析については、母数に対するサンプリング数の割合がとても小さくても十分精度の高い分析ができる。過去のデータから予想と開票結果の誤差や、地域傾向なども掴めているようだから、開票0%で「当確」は本当に確実にできるのだろう。

さて、開票結果なしでも出口調査だけからこれほど高い精度で予想できてしまうのだから、選挙事前調査結果からの予想の精度もそれほど遜色ないに違いない。もう、選挙事前調査結果からの予想を見せつけられた段階で、結果の大勢は判断は十分な確度でできてしまうはずだ。その段階では、まだ選挙戦が続いているはずの候補者には残酷極まりない話だ。

実際の投票行動についてのブレ要因は主として天気ではないだろうか。そのうち、穏やかな晴れの場合、投票時間中総量5mmの雨の場合などと典型的な天気毎の予想を出してくるところがあっても不思議ではない。

投票前の「選挙戦」というのがあって、その選挙中に優勢・劣勢があったり、逆転が伝えられたりするのが、かつては不思議で仕方がなかったが、こうした調査と予想が刻刻となされる状況においては、なるほど投票前が戦いで、投票の際には実質的に結果は出てるものなのだとようやく感覚的にも理解するようになった。

選挙の度に、投票行動の意義があるのかという点については悩むし、政治に自分の意見を届ける手段のなさに、絶望感を感じる。民主主義を信じるとしても、選挙という制度を、人々の「十分考えつくした結果の意見」を政治に届ける仕組に繋げる方法を考えなければいけないはずなのだが、未だに何の「マシなシステム」も思い浮かばないままでいる。

2010/07/11(日)ブログ開始

かねがね、ツイッターよりブログに向いているとは言われていたが、ようやくブログを始めることにした。とはいうもののの、気負いこんで始めたことが継続できたためしがないので、最初はツイッターへの呟きのような感じで始めようと思う。