2021/04/27(火)人権を抑制せざるを得ない時(個人の行動最適化とシステムの改善が対立するとき)

降水量がとても多い日本では、水害被害対策というのは大事だ。
だから、各個人、家を建てる時には雨漏りしないような屋根や壁を作るし、雪が積もったら屋根の雪を降ろすし、豪雨で川が氾濫すれば避難する。そして家が被害にあえば、(原則としては)自身の家計(保険も含む)で家を修復する。全て各人の選択・判断で、各人の費用負担で。そして、場合によってはそれら対策を「しない」選択もできる自由もある。

ところが一方、川の堤防を増強して、地域社会を広く護ろうとすることについては、国や自治体が決め、費用もそれら行政機構が負担する。そして何より注目すべきは、「地域全体のため」に川沿いに住む個人に立ち退きを要求・命令することもある。立ち退きを求められた人にとっては、そこに選択の自由はない。居住地を奪われるという大きな損失を受忍せねばらない。ただし、全体のために、自由を制限されて、被害を被る人に対しては、当然に金銭的補償がなされなければならない。

ここで整理すると、自然現象による人間生活の被害について、
個々人の予防・被害回避・被害復旧については、個人が自由に選択し、費用負担する。責任も結果も全て個人が担う。
社会全体の予防・被害回避・被害復旧については、行政が選択・決定し、責任を全て負い、費用負担する。そして、その際必要な場合には、個人の自由を制限し、行動を命じ、そしてそれらに対しては金銭的補償をする。当たり前だが極めて「政治的」な問題だ。

ウイルス感染による疫病対策でも同じことだ。個々人の予防・被害回避・被害復旧については、個人が自由に選択し、費用負担する。責任も結果も全て個人が担う。そしてそこに携わるのが医師達。医師は個人の尊厳を常に最大に重要視し、そこから逸脱した言動は慎むよう徹底的に訓練されている。
が、社会全体の予防・被害回避・被害復旧については、行政が選択・決定し、行政が【責任を負い】、費用負担する。これは医療ではなく、公衆衛生の問題。基本的に医師が「携わってはいけない」領域の話。
疫病対策として、基本の形は、「感染の媒介になりうるものは排除」。牛の口蹄疫や鶏の鳥インフルエンザでは、「殺処分」だ。しかしながら、現代社会でそこまで人権無視するのだけは補償で解決するべ問題ではなく、やってはいけないと、(濃厚接触の)人間の殺処分だけは例外的に禁忌になっている。が、ロックダウンだって、水防堤防のための住居立退きと同じように、人権侵害なわけで、それに対する補償がなければ、機能しない。
疫病の検査(新型コロナにおいてはPCR検査)でも、ワクチン接種だって、(個々人それぞれを全力で助ける)医療のためのものと、(社会全体を悪くならないようにする)公衆衛生のためのものとでは、【要求仕様が全く異なる】し、そのためのシステムや体制づくりも全く別のやり方。公衆衛生の政策に、医師や病院の手を借りるとしても、それは本来の業務や倫理からは全く外れた仕事内容になることは明確にしなきゃいけない。「医師が必要」とか馬鹿の一つ覚えのように言ってては全く進まない。