2012/12/29(土)自衛
それには、ちょっと別の話から始めたい。
自転車で走行すべき道路を、歩道から車道に変えるという制度変更案が持ち上がった時、多くの自転車ユーザが反対した。
自転車の深刻な事故の殆どは、対自動車の事故だ。そして、それら対自動車事故の大半の第一当事者は自動車側、つまり自動車の側に主たる事故原因がある。なのに被害者は間違いなく自転車ユーザだ。
この状況で自転車の走行路を車道にする制度変更をすれば、自転車の対自動車の事故は増えてしまうだろう。自転車ユーザをより危険に陥れるような制度変更は許されないというのが、走行路変更に対する反対の理由だ。
ところが、この合理的に見える制度変更反対の論拠には、確実でない所もある。例えば「自転車の走行路を車道にする制度変更をすれば、自転車の対自動車の事故は増えてしまうだろう」という推測は正しいのだろうか。海外での類似制度変更事例をあたると、「細い道から優先道路に(よく確認せずに)出てきた自動車が、優先道路を走る自転車を(側方から)撥ねる」事故が、制度変更によって減少し、全体としては「自転車の走行を車道にする制度変更をして、自転車の対自動車の事故は減る」という場合も見つけることができる。
そこで自転車ユーザに、もし「自転車の走行を車道にする制度変更をして、自転車の対自動車の事故は減る」のなら、制度変更に賛成するかと訊ねてみると、多くの人は、それでもやっぱり制度変更は受け入れられないと答える。
何故受け入れられないのか、突っ込んで話し合ってみると、次のような感覚が明らかになってくる。
「細い道から優先道路に(よく確認せずに)出てきた自動車が、優先道路を走る自転車を撥ねる」事故というのは、自転車の運転者がよく注意して走行していれば、避けられる(ような気がする)。だから、歩道を走っていても、自分はその種の事故から自衛できる(はず)と考える。例えば、保育所に子供を乗せて送り迎えするお母様がたは、「しっかり注意して走れば子供を守ることができる」と考えるのだ。
一方、自転車で車道を走るようになって、最も恐ろしいのは、後ろから走ってきた自動車にひっかけられる事故だ。これは自転車側がいくら注意しようとも絶対避けられず、自衛の手段が全くない。お母様「どんなに注意しても、子供の命を全く守れない」と感じる。
自衛の術が全くないリスクを、被害者になるはずの人々に、新たに一方的に押し付ける制度変更には、強い抵抗があるのだ。
さて、ここで銃規制の話に戻って考えてみよう。
米国民は、「暴力に対して自衛する、できる」のが当然と考え、その環境を求める。だから連邦憲法でも、銃の所持を権利として求めているのであろう。
銃規制に反対するのは、「銃での暴力に、どんなに自衛しようとしても、全くその術がなくなるから」と感じてるからだろう。これまで、銃乱射事件が起きる度に、銃規制よりも、銃規制緩和の声がより大きかったのもそういう事情だと思う。
今回、多数の幼い子どもたちが、銃乱射の被害に遭う事件が起こった。子どもたちは、たとえ銃が手元にあっても、それを用いて自衛することなどできない。だから「自衛」を理由に銃を誰もが持つような制度は良くないと、銃規制派の声が大きくなった。しかし「子どもたち」は、親や教師や学校が「自衛」すべきだと考える人達もなお大勢いるわけで、だから銃規制反対派もこれまで同様、いやさらに今までより声を大きくして、自衛できるように教師に、学校に銃を配備せよと説くのだろう。
私は日本の「銃が規制されているからこその平穏」を長らく享受してるから、やはり米国の銃規制反対については不合理にしか見えないが、その心情のよって来るところは、少しは想像できるように感じている。